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 ですから自我は、性根玉の代役を仕立て、これを自分だと言い張るために、「我」を張らなければならなかったの です。

 この自我が、遂に感極まった刹那に、滅諦(めったい)と言う、大我(だいが) に目覚める真実が有ると、釈迦は説かれました。

 つまり滅諦(めったい)は、知識では絶対に適わないものであり。仏に繋がる、痛快事だったのです。

 以上、これまで述べて来た一切が、もう死んでいる、客観論です。この客観論の成れの果てを、屁理屈と言います。
 もう、こと、ここに至れば、「呵々大笑(かかたいしょう)」しかありません。

度し難い人々(十二)

 このような「自我と性根玉」のカラクリを、既に知っていた人は、もしかしたら大我の目が開いていた人も知れ ません。
 しかし「ハイ」知っていました、と嘘を付けば、性根玉はたちまち姿を隠してしまいます。そうなれば、もう自我の独壇場です。
 俺は偉い、俺の天下だと、人々は混乱の渦に嵌まって行きます。
 これを俗人といいます。この俗人達の作り出す地獄が、「唯我独尊」の、我の仕業だったのです。

 本当・・・?

 はい、そうです。


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