ですから自我は、性根玉の代役を仕立て、これを自分だと言い張るために、「我」を張らなければならなかったの
です。
この自我が、遂に感極まった刹那に、
つまり
以上、これまで述べて来た一切が、もう死んでいる、客観論です。この客観論の成れの果てを、屁理屈と言います。 度し難い人々(十二)
このような「自我と性根玉」のカラクリを、既に知っていた人は、もしかしたら大我の目が開いていた人かも知れ
ません。 本当・・・? はい、そうです。 |
⇒次へ |
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | ⇒次へ |
トップに戻る |