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 なるほど、その通りです。それが自我です。

 いいえ、そうではありません。仙涯さんはあの時、洒脱な一言で真実を示しました。しかし自我にはこの姿は見え ません。だから自我は、否定も、言い訳もしませんでした。
 つまり、自我は、仙涯さんの性根玉の言葉を、自分の言葉として受け止めて居たのです。ですから否定も言い訳も しませんでした。

 これが、自我と性根玉(しょうねったま)が、一つになった一瞬です。

 もう一度仙涯(せんがい)さんの言葉を繰り返します。
 「死ぬことは、人ごと成りと思いしに、今度はわしか、これはたまらん。」

 この言葉は「自我と性根玉」の、せめぎ合いの前に、発した言葉です。
 性根玉は常に無言です。しかし自我は、自分で作った自分が、世間の常識から非難される側面に立つと、必至に成 って否定し弁護します。
 これが自我です。
 ですから仙涯さんの臨終の一言は、本来なら自我が阻止して、絶対に性根玉には言わせない一言だったのです。
 ところがこの一言にたいして、言い訳や弁護をする自我の素振りが有りません。

 と言うことは、この言葉は、自我の思い通りの一言だったのです。
 そして何故かこの言葉が、そのまま仙涯さんの性根玉の一言でもあったのです。

 ですから、この出来事は、自我と性根玉のせめぎ合いの前に起こった、痛快事だったのです。


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