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深くに、不動の答えを持って、どっかりと鎮座しています。
 しかし、自我にはこの性根玉が見えません。たとえ気配を感じたとしても、自我には絶対に性根玉は見えません。
 ですから実践を旨とする求道者は、知的理解や理屈を、厳しく戒めました。
 心有る人々は、自己を踏まえながら、自我の正体を見極めんとして、研鑽努力する厳しい修行をしました。
 ところが今の人々は、知的理解を学問としているために、虚像が虚像を作り出すだけで、実践を伴わない理論で は、人々を矛盾から救い出す事はできません。
 ですから私達は「独り善がりのうぬぼれ」と共に、苦しく辛い困難を繰り返しながら、「なにかがおかしい、なに かが変だ」と思いながら、いつの間にか、未来に「恐ろしい」気配を感じています。

 これが自我の正体であり、これが思いあがりの元だったのです。
 たとえ滅諦を諦め、大我の目が開いたとしても、気を許せばたちまち自我は、「独り善がりのうぬぼれ」に嵌まっ て行きます。
 この様な怠慢を戒める為に、仙涯さんは本当の性根玉を見せたのです。

 性根玉とは「独り善がりのうぬぼれ」です。

 えぇ・・・?嘘でしょう・。

 いいえ、嘘ではありません。
 あの臨終の時に「独り善がりのうぬぼれ」を、仙涯さんは、弟子達に見せ付けたのです。


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