18
 しかし主観を捉える事は、人智には出来ないことだったのです。しかし私達は、日々主観に生きています。
 ですから主観を研究することが、私達人間を研究する事だったのです。
 ところが主観の研究は、残念ながら行き詰まってしまいました。何故なら、研究者である本人が、自分の主観を自 分から切り離し、これを客観的に研究するのですから、この方法では、過去の自分を見る事になり、ここにはもう、 生ている自分の真実は無かったのです。
 そのために今日では、客観的研究者が、データーに因って作り出した人間の虚像を、正しい虚像だとして、人々の 生き方にまで、改善を押し付けてくる弊害は、人間社会の常識を覆し、生活の足枷となり、息苦しい社会の、混乱の 限りを作り出しているのです。

 テニスンは、「花を切り刻み、真実を見つけようとしました。」しかし花はもう、死んでいました。
 しかし芭蕉は、「よく見れば、なずな花咲く垣根かな」 と、花の真実を読みました。芭蕉はいまも、すすき野を駆け巡って居るのでしょうか。

 これが主観と客観の違いです。

 主観の研究者とは、求道者なのです。

 現実に亡くなった科学者の中には、「死に直面して、はじめて恐怖に襲われ、焦燥感に駆られている。」という感 慨をネットで見ました。
 私の知り合いに「宇宙の分子に還ります」と言って亡くなった、看護衛生の研究者がいました。ところが死を目前 にして、学者は宇宙を思って死んで逝くのでしょうか。私には判りませ


次へ

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33   次へ


トップに戻る