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 何故なら、一時代前までの日本人は、自分とは未完成な未熟者であることを、承知していました。
 どんなに清く正しく生きようとしても、自分の心の中には、自我という〈独り善がり〉がどっかりと居座っている事を、人々は知っていました。
 ですから昔の人々は、体罰やせっかんを、親や教師から受けても、自分の非に気付き、涙を流すことが出来きまし た。つまり昔の人々は、自分の正体を見抜く力を持っていたのです。これが人間教育の成果であり、これが日本の教育だったのです。

 私の学んだ中学の教室には、標語が黒板の上に掲げられていました。
   いつも力を合わせ、
   陰でこそこそせず、
   進んで良いことを実行し、
   なんでもなぜと尋ね、
   もっと良い方法はないかと、
   考える人間になりましょう。

 これが日本教育の美徳でした。ですから日本人は、「敷島の大和心を人問えば、朝日に匂う山桜花」 であり、何時も日本晴でした。
 こうして我を、見返して見ると、あらためて、我とは、いったい何者だったのかと、少し悲しくなります。

 ようするに「天上天下唯我独尊」とは真我・小我・自我・大我 の総てを一つにした意


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