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 禅画(ぜんが)を得意とする高僧でした。

 ちなみに、禅画(ぜんが)とは(たわむ)()であり、禅僧(ぜんそう)が書けば禅画(ぜんが) です。文人(ぶんじん)が書けば文人画(ぶんじんが)です。しかし私は文人画家を 自称していますが、文人では有りません。でも文人に成りたいと思って生きてきました。漢詩も作りますが、私が作れば漢詩です。しかし禅僧が作れば偈頌(げじゅ)です。なんという 素晴らしい差別ではないでしょうか。

 この様な禅僧は死の間際に、最後の言葉を残さなければなりません。
 仙涯(せんがい)さんは、弟子に「最後のお言葉を」と、せがまれ、「死ぬことは、人事なりと思いしに、今度はわしか、これはたまらん。」と、言われました。

 なんと言う愚かなお坊さんでしょう。
 こんな出来そこないは、師の戒めを逃れ、自分勝手を生きてきた、我利我利亡者(がりがりもうじゃ)に違いありません。

 いいえ、そうではありません。

 死を前にして、これだけの事が言える禅僧こそ、大我に目覚めた人なのです。なぜなら、人とは「独り善がりのうぬぼれ」です。
 この事実を仙涯(せんがい)さんは、死を前にして、弟子達にさらけ出して見せたのです。

 この洒脱な一言が、私達には、出来そうで出来ない、痛快事なのです。

 これが「(かつ)」です。


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