と言う言葉も付け加えてくれました。
 いずれにしても無茶苦茶に有り得ない話でした。

 ですから言葉通りの有り得ない現実が、もう既に、本当に来てしまいました。

 一年過ぎた今、急に消えてしまいました。

 これこそ本当の夢のまた夢でした。

 しかしこれまでに既に三回・四回と海を渡り、小生の筆の跡が大明寺に残りました。

一番は二百二十八m、世界一の山水長巻図です。 ホームページをご覧下さい。

 この以前にも五十mの長巻図を送りました。そして昨年、鑑真坐像里帰りの式典で、四曲半双の屏風に 揮毫することができました。

 ですから、国宝の本堂壁面の揮毫は無念ですが、これくらいが小生には、丁度いい処ではないでしょうか。

 でもやはり、まだ少し未練が残っています。

 しかしこの未練の拘りを、取り去るのが文人の本分で有り、小生は今修行の真最中なのです。

 しかし人生とは、実に妙な物です。

 何故なら小生には、本堂揮毫よりも、はるかに去りがたい思いの残る、人間の出会いが有ったからです。

 現在の鑑真和上の位の方である、能修方丈様に初めてお会いしたのは、セントレア空港のラーメン屋でした。

 既にラーメンを食されていた能修和尚のお姿を、店に入って目に留めた一

瞬、涙が一気に飛びだし、 私は肩をゆすって嗚咽してしまいました。

 お付きの方も通訳も、この様子に唖然とされたことでしょう。

 実は、小生も泣きながら唖然とするばかりで、何故嗚咽して泣いて居るのか、解りませんでした。
 能修様に席を勧められ、ラーメンに箸をつけてもまだ、泣き続けていました。
 能修様も不思議に思われたのでしょう。この後上海の真如寺の方丈様に、私がお会いした時の様子を、 「泣かれましたか」と通訳にお尋ねになったそうです。

 ところが小生は泣くどころか、小生の揮毫作品をご覧になった高僧が、両手の親指を立て「禅気有り」と 言って下さった事に、天にも昇る心地で悦になっていました。

 やはり中国には、山水画が分かる人が居る事を知り、その事に悦び感激しました。しかし泣く事は有りませんでした。

 ところが、能修様に対しては、特別な潜在的不可解な「血の記憶」が、小生には有るのか、 この後も幾度も泣かされる不思議を体験しました。

 この初回の時の涙の出会いを「」と題して漢詩を作りました。


 老麺食無法  ラーメン食するに法無し
 塵縁不厭羶  塵縁の生臭を厭わず
 大明寺方丈  大明寺の方丈
 我覚禅  我がを覚ます
        (涙が溢れて止まらない)

 尊者能修老麺前  尊者能修、ラーメンの前
 風姿不構浴塵縁  風姿構わず、塵縁に浴す
 大明寺主法無語  大明寺の主 法を語らず
 彷彿鑑真令  彷彿たる鑑真ならしむ

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