知恵が出れば,大嘘、偽りが有るばかりだと言うのです。

 私達は、何をしているのでしょう。
 何かを、して居ると言える事が、有るのでしょうか。

 お笑い下さい。七十余歳にして、今やっとこの問いがボケの脳裏に生まれました。

 現代の人間は、生活は何とか出来るものの、心はズタズタです。

 もう、我々には未来は無いのでしょうか。

 いいえ、よく見ると現代も捨てたものでは有りません。
 平成二十三年十二月十日、昼前の東京テレビに、「疑惑のデパート」と言われ、刑務所から仮出所して来たばかりの、 有名な政治家が出て居ました。小生はこの政治家に、感服し脱帽しました。
 何故なら、今正に開眼したばかりの禅僧を見た思いがしたからです。
 一皮も二皮も剥け、小我と言う心の拘りが取れ、まさに大我(真我)を得た禅僧がそこに居たのです。
 見事でした。

 まだ他にも有ります。

 松本のオーム被害者の河野さんが、悲しみのどん底に居たその時、警察は元よりマスコミや国民の総てが、 河野さんをサリンの犯人として、袋たたきにして責め立てていました。その河野さんが。
 これこそが慈悲だと言う行為を、いとも容易に、当然の事の様に実行されていたのです。
サリンの事件の当事者だった犯人が刑期を終えて尋ねて来ると、なんとその犯人を受け入れ, その犯人と生活を共にするまでの仲になっている、と言う新聞を読みました。
 私は思わず手を合わせました。
 記事の終わりに、「恨んでなんて生きて行けませんよ、」と言う一言も載っていました。

 これこそが本来の人間の心であり、これこそが仏だと思いました。

 拘(こだわり)は捨てなければ成りません。

 しかし捨てようとしても捨てられません。

 この恨みや憎しみの拘りから人間が抜け出す事は、人間業を超えた鍛錬・試練・練磨が必要です。

 この修行が文人の生き態で有り。禅僧の修行の実態だったのです。

 しかし、この様な叡智が現代社会の常識から無くなり、いまや人間は闇雲の日々に喘いで居ます。

 ならば、いかにしたら、鍛錬・試練・練磨を、実践する事が出来るのでしょうか。

 達磨は「直視人心見性成仏」と言いました。

 自分の本心を一点の誤魔化しも無く、何処までも真直に見定めることです。
 ちなみに、達磨は巌(いわ)に向かって九年を座り続けました。その為に手足は腐り無くなってしまいました。
       (これが達磨には手足が無い理由です。)

 この達磨の禅を、実践しようとして座った修行者達の洞窟が、鎌倉や松島や、至る処に今も残っています。

 パキスタンに有る紀元前四世紀ごろの佛教大学の遺跡には、人工的に作られた石の穴が、丁度座禅が出来る 大きさで整然と作られ、中央には沐浴するプールも有りました。この近くにはガンダーラ美術館も有り、 西洋と東洋の顔をした仏像が並べられ、仏教が広く行きわたって居た頃が偲ばれました。しかし小生が 尋ねて行ってからしばらくして、タリバンに攻撃されたと言う新聞記事を見ました。また荒廃してしまったのでしょうか。

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