(運思揮毫)  天が筆を揮う物なら、
   (意画不在)  自分の意画がなければ、
   (故以得画)  それ故に画は生まれる。
   (手以不滞)  手は滞らず、
   (心以不凝)  心は凝らず、
   (然以可知)  然るを以って可と知るべし。

 この読み方は、小生の勝手な読み方ですが、なんとか成っていると思います。
 なぜなら、これまで剣が峰を渡って来て思い至っていた思いが、この一説を訓読しない前に、 我が意の意とする処だと思ったからです。
 以上の様な一説の意味する世界を、これを小生は剣が峰と言うのです。この剣が峰を、 たった一人で歩いて来て、この一説に出会えた事は、これが運思揮毫の(運)で有り、天の意とは、斯くなるものかと思う処であります。
 過って千年も二千年も昔に、自分と同じ思いを経験していた人が居たと言う事は、 これはもう天意であり、有るべくして有る道であり。これこそが衆妙の門では無いでしょうか。

この衆妙の門とは、
 道可道 非常道 名可名 非常名
 無名天地初 有名萬物之母 故常無欲以観其妙
 常有欲以観其激 此両者同出而異名
 同謂之玄 玄之又玄 衆妙之門

 道の道たるとすべきは、常の道に非ず。
 名の名とすべきも、常の名に非ず
 無名は天地の初め、有名は万物の母。
 故に無欲を以って其の妙を観、
 常に有欲を以って其の激を観る。
 この両者同出にして異名、
 同じくこれを玄と謂う。

 玄の又玄、
 これを衆妙の門と言う。

 私はこの老子の冒頭の一説を、七十余歳にして初めて読み下す事ができました。これまでの私は、
 「道の道たるとすべきは常の道に非ず、名の名とすべきも常の名に非ず。玄の又玄、これを衆妙の門と言う」
 と言う読み方をして、事ある毎に老子の無為を語って来ました。

 何故なら私は、元から老子だったのです。
 国学院大学の友田不二男先生が、アメリカ留学で、カール・ロジャースの心理療法、カンセリングを学び帰国され、 研究所を開設されました。其の初期の時点で小生もカンセリングに関わり、先生のカバン持ちの様にして同行する様になり、 目白のカンセリング・センターに住み込み,先生の奥様の手料理を頂きながら暮らした時代が有りました。この時に、 先生が老子と言うニックネームを付けてくれました。

しかし余談ですが、この当時の先生の話には、まだ老子はあまり出て来ませんでした。 しかし晩年の友田先生は老子と、芭蕉でお暮らしだったそうです。
ですから晩年になって猶、小生を老子と言って頂けたかどうかは、誠に心もと無いものがあります。

 しかし、とは言うものの、渾名(あだな)など小生にはどちらでもいいのです。

 何時もカンセリングの研究討論が佳境に入ると、決まって発言を求め、訳の分からない事を言っていたそうです。 それを見ていて或る人達は神様と渾名し、又或る人達はコマーシャルと渾名しました。
 しかしその頃の小生は、論点の不備を見過ごす事ができず、総てに真剣であり真摯でした。それ故に愈々難解だったのだと思います。
 それを見ていた友田先生が、小生を老子の様だと言われたのです。

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