何故なら、老子は分からない物であり、不可解な物でしたから、先生もこの時点では、老子とは理解しがたい物だったに違いありません。

 ですから小生を老子と渾名されたのです。
 つまり、有欲を以ってその激をみると言う事を、友田先生は避けられたのだと思います。そして無欲を以って、 小生の妙をご覧になっていたのでは無いでしょうか。

 小学校の上級生になった頃、母の実家の二階に、夥しい本が有る事に気付きました。その中の和綴じの一冊を取り出し、 家に持って帰りました。なぜなら表紙の老子と言う文字が読めたからです。そして本を開くと、大きな不思議な文字ばかりが 整然と並んでいて、見ていると何故かもう大人になった気がして、嬉しく思いました。これが老子への一歩でした。

 子供心に苦境に陥るとこの本を開きました。なぜならこの本の中には、自分には解らない、賢い立派な考えが詰まっていると思ったからです。

 何回も、何回も見ました。
 それ程に何時も、小生は苦境の幼少を生きて居たのだと思います。
 この時の苦境の原因が、何時も答えの出ない、辛くて悲しい難解な物ばかりでした。

 しかし今思うと、面白い偶然でした。
 中学になって、漢和辞典を買ってもらい、難しい漢字の意味を知る事が出来る様になりました。
 ところが辞典が有っても全く読めません、解りませんと言う本でした。
 でも、それだから良かったのだと思います。
 何故なら、或る時突然「道の道たるとすべきは、常の道に非ず」と言う、この一文が読めたのです。

 これまでに、デカルトの「われ思う故に我あり」と言うこの一文は、すでに理解していました。 しかし自分の経験を通して理解できるデカルトとは異なり

もう少し知的で、知識が無ければ理解できない、 道と言う概念で有り、是が読めた時には、急に目が覚めて大人になった様な、不思議な思いがしました。 これでやっと救われると思いました。もう悩まなくてもいいと思いました。

 今こうして、昔を思い出して書いているだけで、胸に当時の感慨が蘇り、涙が溢れてきました。 大きくため息をつくと、「よくやって来たね」と褒めてやりたくなりました。長い七十余年の人生でした。

   こうして今やっと、老子の冒頭の一説が読めるようになりました。

 ちなみに、第二章もと思って本を開くと、なんとか読めそうなのに、読み下す事は出来ません。やはりまた 七十年はかかりそうです。

天下皆知美之為美 斯悪已 皆知善之為善 斯不善已 故有無相生 難易相成  長短相較 高下相傾 音声相和 前後相随 是以聖人處無為之事行不言之教  万物作焉而不辞 生而不有 為而不恃 功成而弗居 夫唯弗居 是以不去

 天下皆、美の美と為すを知る。すなわち已に悪。
 皆善の善と為すを知る。すなわち已に善ならず。
 故に有る無しが、相生じ。難易、相成す。
 長短は相較(ころび)、高下は相傾く。

 音声相和し、前後相随う。
 これを以って聖人は、之の無為の事の處に、行きて之を教えて不言、
 万物の作すを而(しこう)して辞せず。

 生は而(しこう)して有らず。為に而(しこう)して恃(たの)まず。功成って而(しこう)して居せず。夫(それ)唯(ただ)居せず。
 是を以って去らず。

 (この「而(しこう)して」は消してしまい、無い物として読むと、文らしく読めます。)

 嗚呼
 嗚呼・・・もう・・・?

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