やはり判りません。
何故なら、「唯ここには居無い、しかし、だからと言って去る事もしない。」 アァそうですか。そうでもどうでもいいから、もう勝手にして下さい。
これが老子ですよ。ですから小生がカンセリング研究会の場で、老子の様だった訳が分かります。
どこかで、
この愚物行には、何故か無為が離れません。 是が無為です。無常とも言います。 この無為に時間を加えると、無為自然になります。
この無為自然の時間を、無為を以って生きようとして仙境に入ったのが,仙人だったのです。 |
この仙境を人々は理想境と言いました。
ちなみに、菊の代名詞である陶淵明と言う文人が、吟行(散歩)の途中で、洞穴を見つけて入って見ると、
そこに理想郷が有ったと言う桃源郷は、これは俗界に生きる人々にとっての理想郷であり、
仙人の住む理想境では有りません。何故なら、この桃源郷には花咲き鳥歌い、酒や肴や御馳走までが並んでいたからです。
つまり文人画とは、仙人の住む理想境を表わしたものであり、この仙境を具象化して書いた物が山水画です。
それ故にこの図を見て、いかに仙境に相応しい作品であるかによって、作品の評価が決まりました。 ですから、文人画とは評価の高い物で有り、貴重な物だったのです。 文人が山水画を揮毫すると言う事は、自分自身の完成度を測る、絶妙なバロメーターだったのです。
墨の線は、一度書いたら、もう二度と書き直す事はできません。 この事は、墨の文化を元にして生きてきた私達には、改めて言うまでもない常識です。 |
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