やはり判りません。

 何故なら、「唯ここには居無い、しかし、だからと言って去る事もしない。」

 アァそうですか。そうでもどうでもいいから、もう勝手にして下さい。

 これが老子ですよ。ですから小生がカンセリング研究会の場で、老子の様だった訳が分かります。
つまり、えらくご迷惑をおかけした事だろうと、今やっと反省しております。

どこかで、
 「まるであいつは老子だ。いやコマーシャルだ。いい処になると決まって出しゃばって来る。」
 と言う声が聞こえてきそうです。そしてとどのつまりが、神様にまで祭り上げられてしまったのだろうと、 今になって分かる気がします。
 これが小生の愚物行の一幕です。

 この愚物行には、何故か無為が離れません。
 あれもこれも何故か無為です。しかし其の無為の中に、善だ悪だ美だ醜だと賑やかな俗界と言う人間の世界が有り、 一切がこの有為から生まれ繰り広げられて、人々の人生が始まります。それが長くて百年、短ければ一瞬です。 しかし悠久の中の過去から未来への一幕は、一瞬も百年もどちらも一瞬です。

 是が無為です。無常とも言います。

 この無為に時間を加えると、無為自然になります。

 この無為自然の時間を、無為を以って生きようとして仙境に入ったのが,仙人だったのです。
仙人は俗界を絶って、霞を食べて生きて居たといいます。

 この仙境を人々は理想境と言いました。

 ちなみに、菊の代名詞である陶淵明と言う文人が、吟行(散歩)の途中で、洞穴を見つけて入って見ると、 そこに理想郷が有ったと言う桃源郷は、これは俗界に生きる人々にとっての理想郷であり、 仙人の住む理想境では有りません。何故なら、この桃源郷には花咲き鳥歌い、酒や肴や御馳走までが並んでいたからです。
   (この陶淵明に追随する詩人に、王維や孟浩然と言う匆々たる文人達が居ました。)


 この本当の理想境を、具象図として表わした物が山水画であり、この山水図を書こうとしたのが文人でした。
 ですから、やがて山水画を文人画と言うように成りました。

 つまり文人画とは、仙人の住む理想境を表わしたものであり、この仙境を具象化して書いた物が山水画です。 それ故にこの図を見て、いかに仙境に相応しい作品であるかによって、作品の評価が決まりました。
 この後、数千年の長きにわたって、文人は仙人の理想境を求め、自己を極め己を練磨し、理想の仙境に適う 人生を生きようとして、山水画を揮毫しました。

 ですから、文人画とは評価の高い物で有り、貴重な物だったのです。

 文人が山水画を揮毫すると言う事は、自分自身の完成度を測る、絶妙なバロメーターだったのです。

 墨の線は、一度書いたら、もう二度と書き直す事はできません。
 書き直せば書き直すほど、醜く汚い物に成ってしまいます。
 だから墨は人生と同じだったのです。

 この事は、墨の文化を元にして生きてきた私達には、改めて言うまでもない常識です。

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