子供の頃のお習字で、ほんのチョット手直ししただけなのに、何故か先生に見抜かれて、叱られた経験はありませんか。

 墨とは斯くの如く不思議な物であり、偽りを許さない心の機微を、さらけ出して見せてくれる、 もう一人の本当の自分だったのです。

 書き直す事が許されない剣が峰を行く一歩は、これが人生であり、引き返し、やり直す事が出来ないからこそ、 ここに剣が峰が有り、この剣が峰を行くから人生には生き甲斐が有るのです。この生き甲斐の度合いを 教えてくれるのが墨で有り、墨の線だったのです。
 ですから文人はこの墨の線を使い、山水画を書き、自己を直視する日々に生きて居ました。
 偽りの中からは真実は見えません。しかし、偽りを許さない墨の線は、咋(あからさま)な愚心を直視できる、 実に厳しい厄介な代物だったのです。ですから自己練磨の道を行く文人にとっては、自分を見直す最高の物で有り、 人格の尺度を測る最善の物、それが墨だったのです。

 この墨で書かれた山水画は、実景を写生した物では有りません。理想境と言う抽象の世界を、 具象図として表わした物が、山水画だったのです。

 文人達は競って山水画を書こうとしました。

 しかし簡単に書ける物では有りませんでした。

 何故なら、書き直しが許されない墨の線で、扱いの難しい筆を使って、理想境と言う抽象の世界を具象化して書くのですから、 これはもう神業を以ってして、初めて成せる技だったのです。

 だから、文人達はこぞって挑戦しました。
 出来る筈の無い技に、出来ないからこそ文人達は挑戦したのです。何故なら書き上がった仙境図に、自己自身の、 人格の度合いを見る事が出来たからです。

 人間の修行には、文人とは異なる宗教と言う、仏を求める求道者も居ました。人間が浄土を求める願望には、 目を見張る物が有ります。たとえば巨大な建造物です。 人力しか無い時代に、よくぞこれまでと思う山深い辺鄙な処に、 巨大な楼閣が整然と建てられている不思議は、 これこそ浄土を願う、飽く無き人間の性(さが)の成せる業(わざ)であり、救われたいと願う人間の本願がここに有ります。

 しかし文人は、自力で理想を得んとする人達であり、隠遁の生活をしながら、天の意と我が呼吸とが一(いつ) になる鍛錬・試練・練磨に明け暮れたのです。

 そして至り就いたのが、無意だったのです。

 無意とは意が無いと言う事であり、意とは心で有り、心が無ければ即ち無為です。無為と自然に同化して生きる事が 文人の理想で有り、やがて、仙境を理想境とする叡智が生まれました。

 この無為は、禅の無心でしょうか。
 何故なら無為自然に暮らす事が、文人の理想であり、山水を書き詩を読み、自己の確立を目指して生きる文人の生き態は、 まさに禅の無心に違い有りません。

 ところが歴史を振り返り、現代を見直して見ると、禅の無心も、仙境の無意も、もう何処にも見当たりません。
 生きた禅や、生きた理想境は何処へ行ってしまったのでしょう。残された文献の真を問い、実践を以って 禅や文人の本文を問う志士は、もう居無いのでしょうか。
 いまや、人類は崩壊の瀬戸際であり、世界は大混乱の直中に有ります。戦争が先か金融崩壊が先か、一触触発の危機状態です。

 この様な時には、もう人間の精神など必要の無い物なのでしょうか。

 老子は 「知恵出て大偽あり」と言いました。

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