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 この様な宇宙誕生に遡る、遠来な縁の中に生きる私達は、いまだ生命誕生以来、一度として死に絶えた事のない 貴重な存在であり、これが血縁であり、私達自身だったのです。

 つまり人々は、誰も彼も総ての人々が、この宇宙の起源に繋がる欠くべからざる存在だったのです。

 貴方は、この貴重な血縁の繋がりを考えた事がありますか。

 この底知れない血の成せる縁の総ての現象は、これが名(な)であり、この名を無欲を以って 観る処に天地の初めが有り、有欲を以って観る処に激が有ると老子は説きました。この二つの 出どころは同じであり、この出どころを玄と言い、この玄のまた玄を「衆妙の門」と老子は説きました。

 現代人は何故、こうした昔の叡智を、尋ねようとしないのでしょう。もうその必要の無い、完成した 人間に成ってしまったのでしょうか。

 考えは総て、思慮・分別・洞察の後に、述べるのが常識だった時代は、もうはるか遠くに去ってしまいました。

そして現在は、思い付きの無責任極まり無い言葉だけが飛び交い、何処に本当が有るのか、 分からない時代になってしまいました。もしかしたら、もう心は、物質の豊かさに踏みつけにされ、 崩壊してしまったのでしょうか。

 この様な不甲斐ない現実で、私達の心は幸なのでしょうか。

 お許し下さい。この程度の考えが、愚物不譲の実状です。

 人は生まれると同時に、力一杯の産声をあげます。馬や牛は、生まれてすぐ立ち上がります。 人は赤子の時でも、あやされるとにこにこ笑います。しかし、叱られると泣きます。動物の多くは 立ち上がるとすぐ、乳くびを見つけ、カンガルーは袋に入ります。これらは総て血の記憶(本能)の成せる現象です。

 しかし人間は、やがて「知恵出て大偽あり」と言う厄介な欲に左右される様に成り、 金や権力や名誉に溺れ、血の記憶からは遠く離れ、自分の本願を忘れて、激の渦の中に巻き込まれてしまいます。 これが世の中で有り、この世の中(俗界)から離れて、血の記憶に添って生きようとしたのが、文人と言う志士であ り、禅僧だったのでは無いでしょうか。
 つまり、迷いの元となる有欲を去って生きる人と、有欲そのものに生き続ける人との、二つの道が有り、 どちらの道を行くかは、自分自身の意思に因る物だったのです。

 しかしこのどちらも、やがては必ず、人間の「血の記憶」の本願に行きつかねば成りません。

 人間の本願は、欲を去り浄土と言う理想境に、生きて到り就く事だったのです。

 この事は,人間の心は承知して居ます。

 それにしても、「血の記憶」とは、何年、何万年と言う長きに渡って生き続けて、人々の本願成就を願い、 開眼の時を待ち望んで居てくれるのです。

 これこそが、仏では無いでしょうか。

 まだまだ先は遥かです。今少し愚考の時が必要のようです。

 絶無な世界に、絶望の号泣の声、聞こゆるは何か。
 嗚呼、これぞ、世の常の、人智のさま成り。

 有難う御座いました。

             平成二十三年十二月三十一日
                              聖亮合掌

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