理屈では無い、無私の真実とは何なのでしょうか。
科学は、宇宙の果てや、起源を突きとめたと言います。
しかし私達は「自我と性根玉」の同居する、厳しい矛盾に生きています。
この矛盾を、解明するための精進が、人々に与えられた、困難を克服するための、ハードルだったのです。
滅諦(十一)
釈迦は、小我を諦らめれば、大我の目が開くと説かれました。
人間は生涯を通して、物事の一切の行動の判断を、「独り善がりのうぬぼれ」に任せています。だから諍いが起こ
り、困難を作り出しているのです。
これを解明しようとして、人々が、自我に正面から挑み万策尽きたその刹那に、これまで知らなかった、滅諦に
至ると釈迦は説かれました。
しかし、知的理解では、人間の滅諦には繋がりません。
この事実に気付いた人々が、釈迦の教えを求め、求道に旅立ったのです。
ということは、求道の旅に出ない私達は、この世の中の
僅かな隙間に、たまたま生まれて死んで行く、ただそれだけの存在なのでしょうか。
なるほど
この問いは、腹中深くに住む、自我と性根玉に尋ねて見
たいと思います。
「当り前だろう、死んでしまえばそれまでよ。生きているうちが花なのよ。そうだろう、それだけよ。」と自我が言いました。