《 加藤 不譲 》
私にとって文人画とは、判らない妙なもの、不可解なものでした。
ならば、今なら判るかと問われると、答えに戸惑いますが、やはり今でも判らないもの、妙なもの、それが文人画です。
だから書き続けて来ました。
しかし、書いていても分かりません、何一つ判りません。
何故なら、絵描きでは無い書き手が、文人画を書くのですから、どのように書けていればいいのでしようか、どのように描けていればいいのでしょうか。
うまいだけではダメであり、下手ではまたダメでしょう。それならばどのように描けばいいのでしょうか、どのように書けていればいいのでしょうか。
実は、それを知りたくて、私は文人画を書いて来ました。
つまり、文人画のなんたるかを知らない輩が、文人画を書いているのです。
これって、文人画だと言えるのでしょうか。
言える訳ないでしょう,。そうなのです。
言える訳ないのです。
しかし、だからこそ、ここに文人画の本文が有るのではないでしょうか。
つまり、文人画とは,求道なのです。
道を求め、法を求めて旅をする求道者。
この求道者の旅の姿が、まさしく文人画だと、私は思います。
つづく
求道者は法を知りません。法を悟りたい一心で修行の旅を行くのです。文人画家も、文人画を知っていて書いているのではありません。
つづく
文人画を書きながら、何かを求めようとしています。
何を求めようとしているのか、定かでは有りません。ただなんとなく何かを求め、何かを求めたいと思っています。
しかし、何一つ分かりません。
分かりませんが、何かを求めたい、何かに出会いたいのです。
これが求道心です。
とにかく何か確信の有る思いに、至りたいのです。
お笑い下さい。こうして愚物行はすでに70年です。古稀を迎えて猶この体たらくです。
しかしこれが、この体たらくが、,実は文人画と言う妙なものの、本文なのです。
つづく
私は70年前に、この世に生まれました。悠久の過去から、悠久の未来に向かうこの存在の中の一物として、この世に生まれました。
しかし、それ以前までの私は何処にいて、何処からきたのか、私は知りません。
でも、何処にいたのでしょうか。
それはまったく判りません。
それなのに、何故か70年前に、私はこの世に生れました。
つまり、この世の存在の一物として存在するようになりました。
そして、もうやがて、この世から消えて行くことでしょう。
もう、その時がまじかに迫ってきました。
でも、この後は、何処へ行くのでしょうか。
面白いですね。
だって、すべてがまったく判りません。
でも、70年も生きて来ましたから、この間にあらゆるこの世の事ごとの、経験や知識やと、まるで神か仏のように,
すべてを知り尽くしている如くに生きてきました。
真理や、善や美や醜やと、言いたい放題、勝手放題の思いを最優先して、よくもまあここまでと、あきれ果てるばかりです。
でも結局は何も判りません。
だって、自分が何処から来て、何処え行くのか、やはり何一つ判らないからです。
つまり、いまだに真理を知らないのです。
この世のもろもろの事ごとは、それなりに知っています。わかっているかと問われると躊躇しますが、知っています。
しかし、真理は知りません。
ですからこの真理を求めて旅を行くのです。
つまり、求道心とはここにあり、この求道心の一つの形が仏道であり、文人画だったのです。
求道者は己の心の奥の、真の声を聞こうとして修行します。
嘘、偽りのない、本当の心の真実を聞き見極め、己という、最も身近な真実を極めようと求道者は修行するのです。
つまり、生きている自身の事実の経験の中から、真実を見つけ、見極めようとするのが求道者であり、これが修行なのです。
でも、依然として何も判りません。
つづく
ところが、何も知らない、何も判らない筈の愚物(私)に、何と、判るという経験が生まれました。
それは実際に筆を執り、山水画を書こうと悪戦苦闘している時に判りました。つまり判ったという経験を体験したのです。
山水画には「気韻生動」という言葉が、長い歴史を通し問い続けられてきました。この気韻生動が分りました。
つまり、書いても書いても文人画は書けませんでした。絵には成るのに文人画には、まったく成りませんでした。
それがある時突然に、なぜ文人画に成らないのかが、判りました。
気脈が無かったのです。気の流れが絵にまったく有りませんでした。
つまり「気韻生動」がない、だから文人画では無かったのです。
私は少しはましな絵を描こうとして、気の流れを無視して筆を執り、筆先に集中して不足のないように配慮しながら、筆を運びました。
ですから、少しはましな絵は描けましたが、文人画には成りませんでした。
つまり初めて、気脈という、気の流れが私の絵には無いという事が判りました。
つづく
こうなると悲惨でした。まるで蟻地獄のように足掻けば足掻く程、窮地に落ち込んで行きました。
気脈は、気の流れに従って筆を揮うものだと思い、書こうとしました。しかしそう思ったとしても
それだけで気の流れに添えると言うものでは有りませんでした。
気脈が無いばかりか、まともだった絵が無茶苦茶になりました。
すると、もう文人画にはならないし、うまい絵も書けなくなてしまい、書いても書いても虚しいばかりでした。
この間に何度、悔しさに涙したか知れませんでした。
何故なら、書けば書く程虚しさが増すばかりで、絵はいよいよ酷い物になってしまいました。
しかし次第に、悔しさが空虚になり意地になり、絶望が胸を過ぎる様になりました。
その時私は、何故文人画を手掛けようとしているのだろう、と思いました。
文人画など、もう昭和のこの時代(50年)に、関心を向ける者が居ただろうか。
現代社会から見捨てられ、誰も見向きしなくなった今、何故私は文人画を書こうとしているのだろう、と苦悶しました。
その頃私は、現代と言う時代は、最も明らかにしなければならない問いに目をそらし、心が傷付いていると思いました。
何故なら今の時代は、自己と言う、自分を問う人が、いなく成っていたのです。
自己を問う人とは、真実を極めようとして修行する人のことを言うのです。今の人々は、自分に足掻き傷つき、
迷走するばかりです。
つづく
本当の自己の真実を極めようとして、修行する人物が居なかったのです。
私は気脈を求めて筆を執りました。
しかし気脈を知ることも、気脈の存在を見つけ出すことも出来ませんでした。
気付くと、私は自分の存在の実を知ろうと、足掻いていました。
つまり気脈では無い、もっと自分にとて真実な、自分自身の存在の<スガタ>有様を極めようと、していました。
自分には自分の存在が分ります。
天や地や社会やと言うものよりも、自分の存在は自分にはよく判ります。
しかし分かると言っても、その程度のことだけで、それ以上の事は分りませんでした。
ところが、不思議な事に、自分自身の不思議な存在の<スガタ>有様に気付きました。
つまり、私と言う自分には、存在の事実が何処にも無いと言う事実に気付いたのです。
私には、私と言う存在の事実が、何処にも無かったのです。
そして、もしかしたら、ここの処に、この不可解な存在の<スガタ>有様に、気脈は存在するのかも知れないと思いました。
つまり、私たち総ての存在は、存在の<スガタ>有様すらも無い存在の妙の中に、存在して居るのが、総ての存在の事実だったのです。
妙な話ですね。
そうです。正しく妙な話ですが、この妙こそが、本来の存在の<スガタ>有様であることに気付いたのです。
現在・過去・未来を、思い起こして下さい。
私達総ては、現在と言うこの一瞬に生きています。
過去にはもう生きていません。
しかし未来にもまだ生きていません。
ならば、生きているのは現代でしか有り得ません。
しかし現代は一瞬にして、未来に移行してしまい、現代を現代として捉える事はできません。
つまり現在は刻々と未来へと移行し、過去へと過ぎ去ってしまい、その<スガタ>有様を知ることはできません。
その不可解な存在の中に、よくもまあ平然と人間達は生きているものだという事を、知れば知る程、無為自然を悟る事になるのです。
すると、何故か人の心の中に大意が生まれ、筆を執る手に、自ずから安心立命の妙技が具わり、初めて秀優も愚劣も同一の心境に至るのです。
もうここには、気脈も文人画もありません。
しかし、有りませんと言ったその裏返しから、またもとの黙阿弥で、振り出しに立っている自分自身に気付く事になります。
真に愉快ですね、これこそ天空をひと呑みにした気分です。
しかし、こうして三十五年、未だ過って人に褒められた事は、一度も有りませんでした。
それなのに、遂にその時が来たのです。
先月(2010年7月3日)上海の真如寺を尋ね、妙霊方丈様に接見し、その後襖2枚を横にした大きさの額に、山水画の席上揮毫をしました。
ここで初めて、私の文人画人生の中で、お褒めの言葉を掛けて頂いたのです。
ご老師が両手の親指を立て、完成した作品をご覧になって 「禅気有り」 と言って下さったのです。
私の文人画人生の最初にして、最大の喜びでした。
えっ、待って下さい。
先ほど、秀優も愚劣も無いと言ったばかりでは無いですか。それなのに最大の喜びとは、余りにも言葉に意味が無いのではありませんか。
そうです。でもこれで良いのです。
赤子は、あやされるとホタホタと笑います。
爺も苦節35年の文人画人性に、初めてホタホタ出来たのです。
それも、中国の仏教大学院の院長だった、85歳の長老から頂いたお言葉は、格別のものがありました。
人間には、怒りや喜びは付きものです。
しかし、その喜びや怒りのために、何かをするような事が有ってはなりません。
そんな小人に成り、大意を忘れるような人間に堕ちてはなりません。
常に、天地自然の意に従って、己を運ぶ人物として、人は生きて行かなければ成りません。
何故なら、ここにこそ気脈が自ずから具わり、総ての事ごとに対して、自己実現を実践して生きられる人間の<スガタ>有様がここに具わるからです。
つづく
つまり、色即是空・空即是色の真実が、私達の日常の当たり前の<スガタ>有様なのです。
別に難しいことでも、悟りの心境の世界のことでもなく、私達は常に
「在ると言う世界とは無いと言う世界であり、無いと言う世界とは、即ち在ると言う世界である」
と言う当然の存在の中に、常に存在しているものだったのです。
しかしこの様な存在が存在する事実が不思議なのか、このような不可解な存在を作りだす、時間と言う存在の事実が不思議なのか、
私には、答えを出す事はできません。ただ自然に身を任せるばかりで、他に方法を知る術<スベ>を私は知りません。
ただ身勝手極まりない善や美やの、空論からは身を引き、
「色即是空」の実在を知ると言うことは、
常に実在する真実に沿って事に当たる人となる事なのです。
これが気脈の元であり、人格形成の礎なのです。
その為に、これまでの歴史上の多くの知識人、文人と言われた人々は、文人画を書こうとしたのです。
何故なら、人格者たらんと、文人たちは思い、心に強い欲求を覚えたからです。
つまりこの、これまでの数千年に渡る中国や日本の文化の元は、この思い、
この人格者たらんと欲する思いを元とするところより発せられた、人類共通の目的だったのです。
この、生きる意味を失ってしまった人間社会に対して、文人画こそが正気を取り戻す最後の力だと思い、
生活苦も返り見ず、よくぞまあ今日まで来たものだと思います。
何故なら、現代と言う社会は、自己を問う事を忘れてしまい。
やりたいほうだい、勝手ほうだいの無茶くちゃを良しとして、迷走に喘ぎ苦しんでいる時代だと思うからです。
つづく
ならば、人格者とは何なのでしょうか。
それは完成された人間の<スガタ>であり、自己自身の心の有様<真実>を見極めた人の事を言うのです。
つまり平たく言えば、自分自身の心の動きを<ありのままに>知り尽くした人の<スガタ>であり、
ヘドロのような不可解な自己と言う 妖怪の姿に気付いた人の事を言うのです。
えっ、妖怪ですか。
そうです、妖怪です。
古歌に
[こころほど、こころ迷わすものは無し、こころに心、こころ許すな。]
と言う名句があります。
見事ですね。昔の人格者の凄さが、この一句を見ても分かります。
つまり、このような人格者に、心ある人々は成ろうとしたのです。
この様な、志を持った人々の事を文人と言ったのです。そして、この様な士大夫が書こうとしたのが文人画です。
つづく
中国 銀杏画の大家
しかし何故文人画だったのでしょうか。
本来の文人画は、山水画を書くことであり、この山水画を書こうとするとところに文人の本文がありました。
何故なら、山水画とは理想境であり、理想と言う抽象の世界を、具象の形として表現しようとしたのが山水画だったのです。
過って千年も二千年も、三千年も前の地球上は、総ての大地や、総ての視界の一切合切が、
大自然以外の何ものでもなかったのです。
しかしそんな昔の、大自然の中にしか生きて居ない人々でさえ、人間社会に生きる人々は、
理想境と言う世界を、描き求めなければ成らなかったのです。
それが人間の実態だったのです。
ここのところは、よくよく看取しなければならない処です。
人間とは今もなお依然として、未成熟で未完成な存在なのです。
つづく
ならば、どうしたら完成した人間である、人格者になる事が出来るのでしょうか。
そうです、それを知りたくて、 (万巻の書を読み、千里の道を行く)のが、文人画家だと言われて来ました。
求道者は法を求めて旅を行きます。文人もまた求道者と同じ様に、赤貧に耐えながら真実の世界、本当の心の拠り所を、
探し求めて旅を続けたのです。つまり生きると言う事が即ち旅であり、生きる命ある限り、文人も求道者も本物を求めて、
精進に励んだのです。その様な人々が求道者であり、文人画家と言う非凡な生き方をして生きた人々だったのです。
文人達はここで筆を執りながら、墨と言う不思議なものと人生とを重ねながら、自己と言う己の一瞬の妙を知ろうとしたのです。
何故なら墨は自分と同じように、極めて扱いにくい不本意なものであり、一本の線ですら思う様には引けない物だったからです。
まして何か形有る物を書こうとしたら、思いどうりには絶対に書けないものであり、形に拘れば線に勢いが無くなり、線の勢いに拘れば形は無茶苦茶です。
それは見事に己自身に当て嵌まる、不思議な物、それが墨だったのです。ですから文人達は墨に夢中になりました。
墨を意の如く思いどうりにして見たいと思ったのです。何故なら余りにも墨は、自分と言う融通のきかない厄介な者に似ていたからです。